「知っている」という言葉
会話の中で、何気なく「それ、知ってる」と言う。けれど、その言葉の中身を少し立ち止まって考えてみると、本当に私たちは何を「知っている」のだろうかと思うことがある。
たとえば自転車の話題で、XTECH の名前が出ると、多くの場合、実際に乗ったことがなくても評価が語られる。「電動は重そうだ」「見た目重視のモデルでしょ」「折りたたみは走らない」。こうした言葉は、悪意があるわけではない。ただ、どこかで聞いた印象やイメージが、そのまま“知識”として共有されているにすぎない。
しかし、実際に購入し、日常の移動手段として使い、季節をまたいで走り続けている人の感覚はまったく異なる。街中の坂道で電動アシストがどの瞬間に自然に背中を押してくるのか、長く走ったときに疲労の質がどう変わるのか、そしてフレームに内蔵されたバッテリーが単なるデザインではなく、重量バランスや整備性と密接に結びついていることを、体で理解していくからだ。



外から見れば、同じようなカテゴリーの自転車に見えるかもしれない。だが似ているのは形だけであり、道具としての設計思想や乗り味、積み重ねられてきた改良の差は、実際に使い続けてはじめて見えてくる。長く品質を保ち続ける製品には必ず理由がある。それはロゴやスペック表の中ではなく、日常の経験の中に存在している。
料理に例えるなら、料理本を何冊読んでも包丁を握らなければ料理人にはなれないのと同じだ。味は文章では覚えられない。火加減や重さ、音や匂いといった感覚の積み重ねによって、はじめて理解へと変わっていく。モノに対する理解もまた、情報ではなく体験によって形づくられる。
問題は、経験していない情報だけで語られた言葉が、時に実体験のように聞こえてしまう点にある。薄い知識が、まるで所有しているかのような確かさを帯びて語られると、それは便利な会話として成立する一方で、実際に使っている人間にとっては誤解を広げる原因にもなる。
「知っている」と「理解している」は似ているようで、まったく違う。名前を知ることは入口に過ぎない。本当にモノを知るとは、時間をかけ、使い、失敗し、身体の感覚として蓄積されていく過程そのものなのだ。それはファッションでも、家電でも、自転車でも変わらない。
そして最後に、もうひとつ大切なことがある。それは、知っていることは知っている、知らないことは知らないと認める正直さである。知識の量ではなく、向き合い方の問題だろう。むしろ「知らない」と言える人ほど、新しい理解へと進む準備ができているのかもしれない。

