日本という国

XTECHという思想は、日本という国の性格から生まれている

XTECHは、日本で生まれた。それは国名の話ではなく、思想の話だ。日本は、どこにも属さない国だ。アジアにありながら、アジア的ではない。北米でもなく、ヨーロッパでもない。常に「どこかの中間」に立ち続けてきた。

XTECHもまた、同じ場所に立っている。
ラグジュアリーでもあり、スポーツでもある。だが、そのどちらかに寄り切ることはない。足し算ではなく、そのあいだにある余白を設計する。日本は歴史的に、外から来たものをそのまま受け入れてこなかった。拒絶はしない。盲信もしない。一度立ち止まり、使える部分だけを選び直す。

この態度は、XTECHのプロダクト設計と驚くほど似ている。最先端技術を誇示しない。スペックを声高に語らない。必要な性能だけを残し、余分な主張を削る。例えるなら、日本文化が「編集された文化」だとすれば、XTECHは「編集されたテクノロジー」だ。

日本の美意識は、主張しない方向に進化してきた。速さより、間。新しさより、馴染み。説明より、佇まい。XTECHもまた、走っていない時間の美しさを重視する。壁に掛けられ、光を受け、道具として静かに存在する。それは装飾品ではないが、無骨でもない。使われることを前提にした、沈黙のデザインだ。

日本の料理が素材を混ぜすぎないように、
XTECHの設計も要素を混ぜすぎない。ラグジュアリーを強調しすぎれば、スポーツ性が死ぬ。スポーツに寄せすぎれば、余白が消える。その境界線を見極める感覚こそ、日本的だ。

日本は完成しない国だと言われる。だが正確には、完成させない国だ。常に手を入れ続けることで、価値を保ってきた。XTECHも完成形をゴールにしていない。乗る人の時間、使い方、風景によって意味が変わる。使い込まれて初めて、プロダクトが完成に近づく。

だからXTECHは、分かりやすさを選ばない。即効性より、時間。説明より、体験。声の大きさより、残り方。日本という国がそうであったように、XTECHもまた、属さず、誇らず、編集し続ける存在でありたい。それは、日本発であることを主張するためではない。日本でしか生まれなかった思想だからだ。