ルールは誰のためにあるのか、モビリティの歪みとその行き先
道交法が変わり、気候も良くなったのか自転車が車道に溢れてる。街を走る乗り物を見ていると、どこか腑に落ちない瞬間がある。危ないものが自由で、比較的コントロールしやすいものほど縛られていく。そんな逆転現象が、いまの日本の道路には確かに存在している。
自転車の規制は強化され、「車道を走れ」という原則が改めて強調される。一方で、電動キックボードのような新しいモビリティは、どこか余白のある扱いを受けている。この違和感を単純に「おかしい」と切り捨てるのは簡単だが、現実はもう少し複雑だ。
制度というものは、必ずしも「正しさ」だけで作られているわけではない。むしろ、「どこから手を付けやすいか」という順番で動くことが多い。自転車は巨大産業でもなければ、強い後ろ盾を持つ存在でもない。だからこそ規制の対象として扱いやすい。一方で、新しいモビリティは“実験”という名目を持ち、時代の流れに乗ることで制度の中に入り込んでくる。電動キックボード のようなサービスも、脱炭素や都市の回遊性といったテーマに適合したことで、「まずはやってみる」という枠に収まった。そこに人脈や利権が影響していないとは言い切れないが、それだけで制度が動くほど単純でもない。関係性はアクセルにはなるが、エンジンではない。
ただし、その“実験”が成功するかどうかは別の話だ。現実には、すでに一度試して、そしてやめた都市もある。
Parisでは、シェア型電動キックボードは最終的に廃止された。便利さよりも、混乱と危険が上回ったからだ。歩道にあふれる車体、観光客による無秩序な利用、そして事故の増加。「都市に合っているはずだった」乗り物が、結果として都市の秩序を壊した。
ここで見えてくるのは、「都市に合う」という言葉の危うさだ。モビリティは、単にコンパクトシティに適しているとか、短距離移動に便利だとか、それだけでは成立しない。文化、インフラ、ルール、そして時間。このすべてが揃って初めて、街の中に根付く。
日本の現状を見れば、そのどれもがまだ途中だ。道路はもともと車中心に作られ、そこに自転車を後から押し込み、さらに新しいモビリティを重ねている。結果として、すべてが同じ空間に詰め込まれている状態だ。
車道を走れと言われても、その車道は路上駐車で塞がれ、側溝や段差で走行ラインは安定しない。そこに子供や高齢者まで同じルールで放り込まれる。理屈としては正しくても、設計としては成立していない。例えるなら、初心者をF1コースに送り出しているようなものだ。
そして今、その歪みはさらに加速している。自転車だけではなく、あの細い自転車レーンに、電動キックボードをはじめとしたあらゆる新しいモビリティが流れ込んできている。設計されていない場所に、役割だけが後付けされている状態だ。結果として、「線の上にすべてを押し込む」という無理が生じている。
そして、ここで一つの疑問が浮かぶ。
この状況で「車道を走れ」と言われたとき、現実的な選択肢は何なのか。
歩道のない道では、結局その危険な車道を走るしかない。では、その道が路上駐車で塞がれていたらどうするのか。大型車が横をかすめるような環境で、子供や一般利用者に同じ判断を求めるのか。極端に言えば、これはロードバイクも共通の問題であり、本当に正しいルールなのか、それとも自転車自体を潰すためのルールなのかと感じてしまう瞬間もある。
性能としては車道に適したロードバイクですら、この環境ではストレスを感じる。ましてやママチャリや子供用自転車であれば、なおさらだ。結果として、「守ろうとするほど危険になる」という逆転現象が起きている。そんな中、朝の情報番組で「ママチャリが一番良い」と語られている。何を勘違いしているのだろうか。スポーツ系の自転車は危険だと。誤解以前に、自転車に乗ったこともないのだろう。
自転車レーンも同じだ。線は引かれているが、幅は狭く、路面は荒れ、細いタイヤでは溝にハンドルを取られ、駐車車両に塞がれる。自転車レーンが“あることになっている”だけで、実際には機能していない。非常口があるのに荷物で塞がれているような状態だ。
そしてもう一つ見逃せないのが、「人」の問題だ。無免許であること自体が悪なのではない。問題は、扱いきれない人が扱っていることだ。しかもそれは若者に限らず、大人も同じだ。ルール以前に、使う側の成熟が追いついていない。
結局のところ、いま起きていることはシンプルだ。ルールが先にあり、環境と文化が後から追いかけている。本来はその逆であるべきだが、日本では順序が入れ替わってしまっている。
だからこの状況は、「不公平」なのではなく「未完成」だと捉えた方がいい。新しいものが生まれ、歓迎され、問題が噴き出し、最後に整理される。その過程の中にいる。例えるなら、まだ熟成しきっていないワインのような状態だ。
やがて、速度や重量、危険度といった基準で、すべてのモビリティは同じ土俵に整理されていくはずだ。そのときに残るのは、「都市に合っている」乗り物ではない。文化に馴染み、インフラに支えられ、ルールと責任が明確で、時間をかけて受け入れられたものだけが、街に残る。
ルールとは、本来それを守るためにあるのではなく、守れる状態を作るためにあるものだ。いまの日本の道路は、その順番がまだ逆のまま進んでいる。

